大前提として、本人には何の罪も責任もないことは分かった上で・・それでも認知症による衰えは悲しいことだと感じる。周囲の人にとって、その人の最後の印象がネガティブなものになってしまうからだ。
うちの父親は、認知症でも今のところ徘徊もしないし、怒りっぽくなって周囲に当たり散らすこともないので、その点はまだ救われている。ただただ子どもっぽく、記憶力をなくした幼児のような状態だ。5分前に電話で伝えた内容をすっかり忘れて、また同じことを聞いてくる。最近は、自分がどこにいるのかさえ分からなくなっている。
それでも家長としてのプライドが残っているのか、家族のお金の心配や、世話になった人への御礼にはものすごくこだわる。残っているしっかりした部分と、失われてしまった部分のコントラストが激しくて、周囲は戸惑いを隠せない。
家族にしてみれば、あれほどしっかりしていて周囲からの人望も厚かった人が、このような姿になってしまうことは「つらい」の一語に尽きる。できれば見たくなかった。最後まで良い印象でいてほしかった。
長寿化社会の功罪とでも言うべきか、人間の寿命はどこまでが適切なのかと考えてしまう。周囲の人の世話がなければ命をつなげない状態を”生きている”と呼べるのだろうか? 命がある以上は幸せでいてほしいと思うし、これからもできる限り両親のサポートをする覚悟はあるが、自分の人生は『自分のことが自分でできるところ』まででいいな、と強く思う。